NHK(Eテレ)の「趣味どきっ!」で1月31日から始まったシリーズ『茶の湯 表千家 掃径迎良友』を見ました。客を招いてお茶をもてなす「亭主のもてなしのこころ」にフォーカスしたシリーズだそうで、第1回は第15代目家元にお話を伺う回でした。

掃径迎良友

「道を掃きて良友を迎える」

茶の湯のおもてなしとは、亭主が心を込めてお茶を点て、一服のお茶を客が感謝しながらいただくこと。
亭主は客をもてなすために、客を思いながら、路地を掃き、茶室を清め、掛け物や花、道具の準備をします。

この(路地を履くだけではなく)一連の準備やその準備に込める心が「道を掃きて」という言葉のなかに含まれているのかな、と感じました。

説明の中で、家元は、『茶の湯の舞台とは、茶室だけではなく、茶室へと続く路地、その道中のさまざまな景色もその一部』と仰られていました。
茶の湯でのもてなしは、門を潜って広がる空間の隅々にまでゆき届けなければいけない、そんな亭主としての心構えを感じました。

浮世の外の道

また、千利休は路地を「浮世の外の道」と表現し、「世俗の塵を払って清らかな茶室へ向かう道」と言いったそうです。茶の湯は、邪念を絶ち、禅定のような「自然体」の気持ちで楽しむことが大切なのかもしれません。
「庭屋一如(ていおくいちにょ)」という言葉があります。これは、庭園と建物の調和がとれ、一体となるような考えで、まさしく不審菴はそのような空間になっています。これもまた「自然」との調和を意識し心を空っぽにし、自然体で楽しんでほしいとの思いがあったのかもしれません。

3畳半という空間

不審菴はおよそ3畳半(と床の間)という大きさの空間です。

『限られた空間の中で亭主と客が膝と膝を突き合わせて、心を通い合わせる。空間的な狭さが虚飾を反して人と人との距離を縮めることにつながる』との利休の想いがあったのではないか、と家元は仰ってました。
この3畳半というのは、まさしく「人と人との距離を縮める」のに適している最適解だな、なんて生意気ながら想いました。
というのも、一般的な部屋と比べると狭いとはいえ、決して狭すぎるわけではない。その広すぎず狭すぎない空間は、他人のパーソナルスペースに踏み込みすぎない、適度な距離感をとれる大きさではないでしょうか。ここにも利休の「侘び寂び」の塩梅、亭主が客と接するときには「適度な距離感を取り」「押し付けではないおもてなしの心」を忘れないようにという想いがあるのかなと感じました。

「おもてなし」は日常の延長にあり、特別なものではない。

最後に、利休の茶の湯の心を。

「淡々として水の流れるがごとく」

この言葉は、流れる水のように自然体でありなさい。という意味で、利休の点前の伝統です。
所作が自然で飾り気がなく、簡素さの中に心がこもること、という亭主の立ち振る舞いについての考えです。

家元はこの言葉を『お茶会だからといって肩肘張ってもてなすのではなく、おもてなしもあくまでも日常生活の延長にあり特別なものではない。だから自然体な気持ちで臨みなさい』『また、日頃からそういった気持ちを持つことで、自然とおもてなしの心を持てるようになる。』と捉えており、この説明が私にとってはかなり腑に落ちました。

「お点前」と聞くと、すごく敷居の高い印象がありました。
どこか庶民とは無縁の「お高い人の嗜み」のようなイメージでしたが、実際はそうではなく「日常」の延長であり、「日常」につながる心であるということ。これこそが利休が目指した「お点前」の姿だったのではないかと感じました。

カテゴリー: 千利休

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